サッカー選手の言葉を借りて、村上龍を馬鹿にしてみよう。(2行で)

限りなく透明に近いサムライ・ブルー‐偉愚庵亭憮録
村上龍と中田英寿引退と目玉焼き‐犬にかぶらせろ!
小田嶋隆とgotanda6両氏の見る中田引退‐さて次の企画は

・文体とパスの精度(笑)。
・プギャーだよな、今となっては。噴飯へそ茶だよ畜生。
・あのあたりが発端だったろうな。
・だって、「文体」と「パスの精度」は、並立させるべき概念じゃないし、作家とサッカー選手は同じ高みからオレらパンピーを見下ろして良い関係ではないはずだから。
・百歩譲って見下ろすのはアリでも、同じ高みにいるのはヘン。絶対に変だ。

小田嶋さんの表現が見事すぎる。

しかしここはサッカーファンらしく、『中田英寿を取り巻く愉快な仲間達』を偉大な選手の名言を借りながら馬鹿にしてみよう。

『野球は格闘技だ。サッカーは戦争だ。』村上龍(作家)  
『サッカーは戦争だなどというやつは、本当の戦争を知らないんだ。』ズヴォニミール・ボバン(元クロアチア代表)

2行で済みました。

まあ、バブル時代に踊り狂った後で、「あの金で何が買えたか」なんて本を臆面も無く出せてしまう人間の言葉と、実際にサポーターを守って出場停止をくらったり、内戦の影響で国際大会から締め出された経験を持つ一流プレーヤーの言葉では重みが違いますが。

その他の人間に関しては一行で済みます。

『カモメがトロール漁船を追うのは、そこからイワシが海に投げ入れられると思ってるからだ。』エリック・カントナ(元フランス代表)

『カモメ=メディア・取り巻き、トロール漁船=サッカー選手、イワシ=ネタ・金』として解釈しましょう。つまり「てめーらは他人のおこぼれしか狙わないゴミだぜ。」ってことですね。


ちなみに個人的にはこうした取り巻きを馬鹿にするのもいいんだが、もう少し「日本におけるサッカー選手の価値」を考えたいなと思った。

上の取り巻きが成立するのって、「サッカー選手<文化人」「ピッチ<マスメディア」っていう価値体系がベースにあるからじゃないのかな。つまり、サッカー選手としてピッチで成功するだけでは、彼の自尊心を満足させることができず、その上位にある(とされている)フィールドに上がりたがっていた、と。それって多分、中田個人の資質だけでも、その取り巻きのせいだけでも無い気がする。

ジダンはこう言っている。

『我々が人々にもたらすことができる喜びを決して忘れるべきではない。そうできた時、サッカーは僕らに幸福をもたらす。これは交換なんだ。僕らは与え、与えられる・・・』

この概念をベースに語るならば、中田個人がサッカーを通じて与えた喜びと、その引き換えに与えられた幸福の格差が大きすぎた、ということになるのだろう。だから、より大きな幸福を得る為に、文化人やクリエイター、経営者という方向に向かった、と。でもこれって、日本における社会的な序列そのものじゃないのだろうか。

つまり、ただサッカー選手として活躍するだけでは、十分な尊敬を得ることができないってことなんじゃなのかな。実際、引退した元日本代表選手の扱いなんかを見ると、相応の敬意が払われていないんじゃないかと思うことはあるし、「サッカーしかできない」という形で明らかに見下されている感じはする。だから、中田は現役時代から「サッカーだけじゃない」ってことをピッチの外で表現しなければならなかったんじゃないかな。そして多くのサッカーファンもメディアも「サッカーだけじゃない」からこそ、彼をカリスマとして扱ったんだと思う。

でも、これって大きな間違いなんだよね。サッカーにはサッカーを通じてしか与えることのできない感動や快楽があって、全てのサッカー選手はそれをファンに与える為に存在しているんだから、ピッチの外で何を表現しようが全ての価値はピッチの中に還元されるべきなんだ。だから、ピッチの外で何を表現しようが、「プレーが全て」という形で選手を評価するべきだったし、同時に、「サッカー選手」というものにもっと敬意を払わなければならなかったんじゃないかな。

小田島さんは、『ずっと早い時期に、「うちの若い者をたぶらかすのはいいかげんにしてほしい」と、サッカー界の誰かが怒鳴りこみに行くべきだった。』と書いているけれど、僕はむしろファンが「手前がピッチの外何やろうが知ったこっちゃないが、ピッチの中で全てを表現しない奴は評価しないからな!!」ぐらいのトーンで中田に向き合うべきだったんじゃないかと思う。だってマラドーナもベストもカントナも、ピッチの外ではゴミ屑みたいだけど、でも彼等は恐らく大半の文化人や芸術家よりも多くの人たちに深く愛されてるし、尊敬もされているから。そしてその取り巻きに堂々と、「手前等俺達の大事な選手なに利用してんだ?あんまり選手の品位落とすようなことしやがったら容赦しないぞ?」という形でプレッシャーをかけるべきだったと思う。どちらにせよ、サッカー選手もサッカーファンも舐められているのは事実だ。

そう、「サッカーが上手い」ってことは特別なことだ。それが国を代表するくらい上手いってのはよっぽどだ。では、僕等は相応の敬意を彼等に払っていたのかな。ジダンの言葉の通り、サッカーを通じて与えられた喜びを、彼等に返すことはできていたのだろうか。もしかしたら、もう一度、見直してみてもいい時期に来てるんじゃないだろうか。

ちなみに同じ有名人でも、自らオーナーになって選手を買う為にツアーをするエルトン・ジョンや、大金持ちになったのに未だにゴール裏の自由席でファンと大騒ぎしながら試合を観るノエル・ギャラガーみたいな人は最高です。